チーム京都

【チーム京都ML】死ぬ人と死なない人【TK007】
2024年12月22日
チーム京都のみなさま 林です。  つい先日、中山美穂さんが亡くなられました。ご冥福をお祈りします。  思い起こせば、昔「毎度お騒がせします」というドラマがありまして、そこに主演されてたのを見て強烈に印象に残ったのを思い出しました。  同年代の方は必ず観てると思いますが、このドラマ、今だったらどうということはないかもしれませんが、結構、叡智な内容を含んでおりまして、リアルタイムで観ていたワタシは相当興奮しておりました・・・汗。イヤ、決してワタシだけではなくて、未成年であのドラマを見ていた男子は、全員興奮していたと思います。正直に言えば、叡智な内容があるシーン目当てで観ていました。心当たりのある方、たくさん居るはずです・・・ぜひお知らせください。  中山美穂さんご逝去のニュースを目にしたとき、まずよぎったのは「自殺ではないか・・・」でした。  その後、「事件性はない」と報道されており、少し安堵しました。  多くの方がご存じかと思いますが、ワタシは何年か前に自殺予防対策を担当しておりました。  担当する前と後ではいろいろな変化がありました。変な言い方かも知れませんが、自殺を身近に感じるようになりましたね。いろんな意味で。  一番重要な気づきは、「誰にでも可能性はある」ということです。それと同じくらい重要なのは、「残された者を責めてはいけない」ということです。  誰にでも可能性はあるというのは、どれほど明るくて強くてポジティブで、幸せな人でも、文字通り可能性はあるということです。違う言い方をすれば、予想もしてなかった人が予想もしていないタイミングで自殺するコトがあり得るということです。  自殺予防対策といったとき、「自殺させない」と言うことばかりが注目されがちですが、決して「自殺してはダメだ」とは言ってないのです。自殺するほどツラいこともあり得るよねというのが全ての前提になっています。自殺のあと、残された身近な者は辛いだけでなく、心ない「なぜ気づかなかった?」という言葉で二重に傷つけられます。自分自身が一番そう思っている、なぜ止められなかったか、なぜ気づかなかったか自問自答しても答えが出ない時に、いろんな人から責められるわけです。  「麻薬ダメ、ゼッタイ!」という標語がありますが、あの言葉は残酷です。やってしまった人、手を出した人が救われない。ダメでゼッタイなことをやってしまった自分は無価値な人間だと絶望させる言葉ですからね。  自殺予防対策を通じて気づいたことは、「人間をタイプに分けることはできない」ということかもしれません。誰にでも可能性があるのだから、「死ぬ人」と「死なない人」には分けられないのです。同じように、麻薬に手を出す人と出さない人にも分けられないし、ひいては、善人と悪人にも分けられない。善人と悪人がいるのではなく、同じ人が、ある状況下では善なる行動をし、別の場面ではにな犯罪を犯す。どちらかを切り取れば別の人間のように見えるというわけです。  結局、性善説も性悪説も当てはまらない。最近よく耳にしますが、いわゆる、「性弱説」がいちばん人間社会に当てはまるなあと思っています。  目の前にお金を積み上げられて、「盗るなよ」とだけ言ったのなら、盗った人だけが悪いとは言えない。誰しも魔が差すことはあり、バレないと思ってしまうと短絡的に悪いことをしてしまうことはあり得るという考え方です。逆に言えば、金庫に入れて盗りにくいようにしておけば、誰も盗人にすることはないわけです。  自殺予防対策を通じて、人間に言い聞かせて意思を持って行動させるのは限界があると痛感しました。ダメだと思っていても悪いことをやってしまうし、精神的に弱っているときは簡単に詐欺に引っかかったりする。そんな大きなコトでなくても、健康に悪いと分かっていても食べ過ぎたり飲み過ぎたりする。「少しくらいなら」とおもって小さな悪事を働くというのは誰にでもあり得ることです。納得させたら良い行動を取るかと言えば、そんなことはないのが人間です。そして、そういうふうに思っていてもできないという点こそ、「人間らしい」と感じるようになりました。  自殺予防対策に関わっているとき、自殺を考えることがあったとしても、本当に自殺行動をとるにはいろいろな条件や環境が揃っていることが必要なのだと感じました。  そこから、どのような条件や環境が揃えば自殺するのか、どの条件や環境が無ければ自殺しないのかを考えるようになり、調べまくりましたね。  どのような環境や条件を揃えれば、ある行動をする(作為)、ある行動をしない(不作為)ようになるのかが全ての問題解決だなと思い、「行動」を研究し、政策立案や助言、その他のことに活かすようになっていきました。行動という視点でみると、全然違う分野や時代のことであっても、同じように当てはめられると感じています。  次回は、行動を考えるようになって関心をもつようになった、「ナッジ」について少し申し上げたいと考えています。